「英語はあくまでも道具だっていうこと」

MKさん (写真家)

高校を卒業後、カリフォルニア、サンフランシスコのSan Francisco Art Instituteに入学。その後、カナダのConcordia University(モントリオール)に編入し、美術学部を卒業。 北米に8年間滞在したのち日本に帰国。 海外メディアのニュース、ドキュメンタリー制作のプロデューサー業を経て、現在は写真家として活動中。

高校2年生の夏、父からいきなり、「Mさんがお前に『アメリカの大学で勉強してみないか?』って言ってくれてるんだけど、どうする?」と言われた。

Mさんというのは父の大親友。仕事で海外転勤になり、家族とカリフォルニアで暮らしていた。事の重大さもわからないまま「英語を話せたら楽しそうだなあ〜」と思って「うん、行くよ」と人生のすごい決断をしてしまった。この「英語を話せたら楽しそうだなあ」という単純な理由での決断は大正解だった。もちろん最初はとても大変だったけれど、決断したものはやり遂げたいと思い、ストイックに勉強した。

 

その後サンフランシスコの美大に入り、「英語」の勉強ではなく、英語を母国語とする人たちと一緒に「美術」の勉強をした。初めはとても大変だったけれど、コツコツやっていると英語は次第に身に付いてゆき、私はそれを使って勉強し、毎日の生活をこなし、友達と付き合い、恋をし、ケンカをし、いろんな場所を旅した。

 

およそ8年のアメリカ、カナダ生活を経て日本に帰ってきて18年。ある海外テレビ東京支局のプロデューサーとして勤務した後、フリーになり外国から取材で日本にやってくるテレビ局と仕事をしている。世界中の言葉が話せるわけじゃないけど、英語でやりとりができる。まさにこれが英語の醍醐味だ。 しかし、英語が話せればそれで全部オッケーかというと、そうではないと思う。 結局、中身がない話しか出来ない人は薄っぺらい付き合いしか出来ない。

 

サンフランシスコの美大にいた頃、ある30歳代の男性が同じ大学に留学してきた。入学してきた当初、彼の英語はそれほどうまくなかったけど彼はたちまち学校中の人気者になった。理由は彼の知識と人間性。 ほとんどの生徒が18歳から23歳くらいの学校で、彼の経験や知識はとてもおもしろく、皆が彼と友達になりたがった。 英語が下手でも関係ない。言葉は通じればいい。要は自分の中にどれだけ面白い知識があり、いろんな経験をしていて、何よりもそれらを伝えたいという気持ちがあるか。そう感じてから、アメリカ人の真似はやめて、中身を磨こうと思った。日本文学を読み、日本映画を鑑賞し、日本に帰省する時に着付けやお花などを勉強した。

 

これから英語を勉強する人に言いたいこと。 それは、英語はあくまでも道具だっていうこと。目的ではない。英語を話すことによって、日本語だけでは得られない知識を得られたり、いろんな国の人と知り合える。だけど、ただ発音がよくて流暢な英語を話すだけではあまり意味がない。 何でもいい、自分に自信を持てることを持つこと。英語がどんなにたどたどしくても、何かを追求している人の話すことはおもしろく、周りの人はその人に耳を傾ける。自分の分野を日本語でしっかりと固め、その上で英語をインプット(情報収集)とアウトプット(自分の意見を発表)としての道具として使えばいいのではと思っている。

 

現在私はアートの分野に戻り、作家活動を再開している。主に舞台はヨーロッパとアメリカ。参加している写真祭ではほとんど必ず「Portfolio review」がある。これは有名なキュレーター、ギャラリスト、エディター、美術収集家などが20分ずつ作品を見てくれるというもので、新人作家たちにとってはビッグチャンスだ。もちろんここでの共通語は英語。そして残念ながら日本人の参加者が非常に少ない。というか、まだ見た事がない。 韓国人をはじめとするアジア人や北欧の人たち、他にも小さな国の人たちの参加者はたくさんいる。たぶん彼らはもっと前から自分たちの国の言語だけでは戦っていけないということを認識していたんだと思う。これまで日本では、ある程度国内だけでやって来られたけど、これからは違うと思う。その事実を受け止めて世界に出て行けば、活躍の舞台がこの日本だけではなく世界に広がる。これはアートの分野だけではなく様々な分野で言える事。 広い視野を持ちながら、自分の専門を掘り下げて行く。 そんな姿勢の人に英語の語学力がつけば、怖いものなしだと思う。

蝶がとっまった写真家の手

Mさんに蝶がとまった