学校での学習は決して無駄ではない

渡嘉敷 祐介 (Yusuke Tokashiki) さん (沖縄自然食品輸入販売)

1963年、埼玉県生まれ 青山学院大学経営学部 Mercy College, NY NYでのヘッドハンティング事業、 トミータカラ関連会社現地営業責任者を経て、 現在沖縄自然食品輸入販売に従事。

私は、86年に渡米、在米生活は丸27年になります。 現在は沖縄自然食品の北米市場輸入販売業務を中心に活動しています。 それ以前は、日本の玩具会社、トミーの現地法人で、営業とライセンシングの責任者、また同社との共同で同社製品の販売ディストリビューター会社を経営していました。西海岸に移住し11年ほどたちます。 その前にはニューヨークで16年ほど生活しておりました。 渡米の大きな理由は、米国の個人主義と、国を形成するダイナミズムに高校時代より憧れを持ち、将来、自身のビジネスを構築して、経営していきたい意向が日々強くなったからでした。

学生時代(中学、高校)の英語学習は、全くと言ってよいほど、興味は沸きませんでした。 文法や読解など、非常に学問的な要素が強く、英語をコミュニケーションツールとして考え、それを利用することで自身の世界が広がる、という考えが出来にくかったのが大きな理由だったのではないかと思います。 一応、進学校に通っていましたが、成績も常に赤点ぎりぎりだったと記憶しています。 特に英語の勉強はしなかったです。

しかし、自分の夢を実現するために、必要な英語の習得には興味があり、知識の無いなりに、渡米にあたっての、また、将来的な英語の攻略を、自分なりに考え始めました。 その当時、大学浪人して入学し、親元を離れ自活を始めた時期だったので、資金も無く、英語学校に毎日通うという選択肢は可能性として必然的に低く、他の方策を考えなければなりませんでした。
そこで思いついたのが、現在も日本国内に何箇所か存在する米軍基地での勤務=英語習得というものでした。 幸運なことに、神奈川県厚木の米海軍航空施設EMクラブに、カクテルウェイターとして就業し、とりあえず、毎日英語を否が応でも話さなければならない環境は手に入れました。 客は全て軍属の兵隊(もちろんアメリカ人です)でした。
夕方5時くらいから夜中まで、週末は、午前2時近くまでの勤務だったと思います。 その当時は、毎日覚えたフレーズや単語の使用を試み、失敗すれば翌日には訂正するという、会話を上達させる上では理想的な環境だったと思います。 誰もが米軍基地での就業は可能ではありませんが、私の場合、ここでの2年間は、英語環境に慣れたという意味では、非常に幸運であったと思います。 また多くの友人にも恵まれました。 私は、そのクラブの歴史上、初めての日本人カクテルウェイターであったとのことを後日聞かされました。 それまでは、全て米国人(英語がネイティブ)か、フィリピン人の方々がほとんであったそうです。 その頃は、まともな会話もおぼつかない様な状態でしたから、よくクラブマネージャーが雇い入れたと思っています。 しかし、会話も上達するにつれ、兵隊たちの友人も急激に増え、非番の日にはよく、横浜に何人かを連れて、遊びに行ったものです。 それまでは、非常にバカにした態度を取られていましたが。
そのうちの一人は、私が彼に頼まれ声を掛けた日本女性と結婚し、今も幸せにやっています。 厚木のカクテルウェイター時代は、その後の渡米の情熱と英語習得の興味を更に高めてくれました。

渡米後の1年半は、お決まりのレストランビジネス(皿洗い、キッチンワーカー、アシスタントマネージャー等)で生活していましたが、
87年の夏に転機が訪れ、コロラド州のデンバーよりニューヨークに移住が決まりました。
東京の従兄弟の会社の米国オフィス設立にあたり、声が掛かり、二つ返事で引き受けました。 一応、翻訳通訳、イベント、人材斡旋会社ということでしたが、当時は、日本はまさにバブル経済の真っただ中、今思い出すと、恥ずかしいくらい経営はいい加減だったと思います。 クライアントはほぼ100%が日系法人でありましたし、サービスも経営もいい加減でも通ってしまう不思議な時代でした。
その頃から人材業務に従事し始めたのですが、バブルも崩壊し、クライアントの求めるサービスの質も徐々に高まり、今までのやり方では全て淘汰されるという畏怖の中、アメリカ人とのコミュニケーション能力の向上は不可欠になってきました。大学に行きなおし、英語の基礎をやりなおさなければと真剣に考えました。 結局、2年ほどニューヨークのカレッジに通いました。 目的が明確であったので、効率も良かったと思います。

97年くらいからでしょうか、人材紹介業務を人材のサーチ、ヘッドハンティングに切り替えることにしました。当時、ニューヨークに存在した日系の人材紹介会社は、どこも、職を探す人間の履歴をファイルし、クライアントからの要請があった場合に、その中より選別・紹介する会社ばかりでした。 私が同じことをやっていても、資金力の無さで結局ラチがあかない。 そこで、彼らに出来ないローカルのアメリカ人の人材サーチ・ヘッドハンティングしかないとの結論に行き着きました。 それも、ニューヨーク地区に多く存在する、大手日系メーカーに、セールス、マーケティングの人材を充当するのを専門にサービスし始めました。 営業し、徐々にオーダーも増え始めましたが、手元に適当な人材の情報が無いわけですから、何とか入手しなければなりません。 クライアントでも、候補者とでも、とにかく電話で知らない人と英語で会話をするのです。 恥ずかしい、嫌だ、などとは言ってられません。 クライアントは日系企業とはいえ、コンタクトをする窓口の人間はアメリカ人が多かったのです。 もちろん、トップの社長は、日本人であることが多かったですが。 私はその点を踏まえ、信用を得るという意味で、日本人である長所を大いに利用しました。 候補者へのコンタクトは、まずオーダーの入ったポジションの業界をリサーチし、競合社のリストアップをし、その後、タイトル(肩書き)を頼りに名前を入手し、本人にコンタクトする。 実際に本人に会うまでは、全て電話でのやり取りです。 相手も忙しい中、電話で話す短い間に、なんとか情報を引き出し、相手に興味を持ってもらわないといけません。 電話をかける前には、大まかな会話の台本も用意して、一回一回が本番勝負というような意気込みでした。 その作業は徐々に楽しくなっていきました。 ポジションにもよりますが、本人からレジュメ(履歴書)を提示してもらい、クライアントとの面接を設定するまでに、本人とは100回以上は最低話をするのではないでしょうか? 信用を勝ち取らなければ、決してそこまで進みません。 その当時、パートナーたちの手法を真似したり、会話を覚えたり、出来ることは何でもしました。 このヘッドハンター時代は、一日平均6時間は、電話で英語を話していたと思います。 今考えると、良くやっていたと、自分でもあきれると共に、感心もします。 補足ですが、その当時、スクリーンプレイという本(映画の台本の台詞が全て英語で記述してあり、日本語の訳とフレーズの説明等がある)をむさぼり読み、会話を記憶していました。 マイケルダグラス主演のウォールストリートなどは、かなりの部分を記憶するくらい繰り返し読みました。 これは非常にためになりました。

私の英語学習経験は、多くの方々にとってためになるかは疑問ですし、皆それぞれ、適当な手法が違うと思います。 ただし、学校での学習は決して無駄ではありませんし、非常に重要であると、今改めて感じています。 私の場合、基礎が無かったので、非常に乱暴な手法になってしまいましたが。 現在も、勉強不足を感じることは頻繁にあります。 何事もそうでしょうが、英語を使うことに喜びを見出せることが重要だと思います。 そうでなければ、結局長続きしませんよね。
英語を利用して何をしたいのか、アカデミックな方向に進みたいのか、ビジネスをしたいのか、人それぞれだと思います。
私自身は英語でコミュニケーションをとる事が個人的に非常に楽しいですし、また、アメリカ人、英語圏の人々考え方、文化の違いを知ることで、自分が日本人であるバランスを取っているところは大いにあります。

2014年8月追記、英語会話の“キレ”と“ジョーク”
11年前にカリフォルニアにニューヨークより移住し、私自身の英語会話の“キレ”は
残念ながら落ちたと思っています。“キレ”とは、確実に自身の伝えたいことを
パーフェクトなタイミングで伝え、尚且つ相手の強い興味を引き出させ、会話とコミュニケーションをより高いレベルに持ち上げるテクニックと言いますか。勿論個々それぞれ”キレ“の定義が違うと思いますが。
ニューヨーク時代は日々常に英語で話し、考えていたせいもあり(逆に日本語の切れが悪くなったところもありました)、会話のリズムも早く、より的確なポイントをつく会話を楽しんでいたと実感します。これはカリフォルニアとニューヨークの人間の対人力、文化の違いにも大きく依存するはと思います。以前こんなことがありました。ニューヨークのグランドセントラル駅に隣接したポストオフィス(郵便局)にはオフィスが近かったこともあり、郵送物の発送や切手の購入他でも頻繁に訪れる機会がありました。
局内には20ほどの窓口の前に人々の列があり、常時職員がその対応にあたっています。
職員の人々は特別愛想が悪いわけでもありませんが、特に愛想が良いというわけでもなし、
淡々と業務をこなしていました。ある日、日本へパッケージを発送するために訪れ、
一つの列で5-6分ほど待った後、自分の番となりました。日本の宛名と住所の明記したパッケージを目の前の中年の黒人の職員の人に渡しました。その人は私の顔を見るでも
なく、“Postage is…..total $10.50.” と言い、私が20ドル札を手渡すと手元の釣銭が無かったらしく、他の職員を呼び両替を頼みました。その頼まれた職員は20ドル札を持ち、一旦奥の方へ消えました。私と私の担当の人は両替された釣り銭を待つことになります。
その間、私の担当の職員はパッケージを確認しながら “To Japan, huh? I love sushi.” などと、なおも俯きながらぶつぶつ言っていました。
その際私が彼に “How many days will it take?” と尋ねました。当然パッケージの発送のことしか頭に無い彼は “Well, about 7 days. Is that OK” と答えます。
そこで私は “To get the change?” と躊躇無く聞き返したところ、彼は初めて顔を上げ、
私の顔をじっと見た後で、大きな声で笑いはじめました。当然つり銭を受け取るのに7日も掛かるはずも無く、パッケージの到着をつり銭の受け取りの件にすり替えたジョーク
だったのです。私の方も “How long?” でなく”How many days” とやったことで、彼も
うまく引っかかりました。これが大変受けてその場で私の後ろに立っていた数人も大笑い。あまりの大笑いで、郵便局中もいったいどうしたんだ?といった雰囲気で私の後ろで笑っていた数人が、また他の人々にその有様を伝え、また更に笑いは大きくなりました。
その黒人の職員は私のことを指差し、 “Here’s the Japanese comedian!” と大声で紹介し、10数人から拍手まで起こる始末です。皆大変楽しそうに大きな笑顔で、私が郵便局を去るのを見送ってくれました。郵便局に来て、こんな気分の良い思いが出来たのは幸せでした。

この様な機会があると、また更に英語のフレーズやその文化的な背景にある意味合いを
学ぶ興味が増すものです。

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